写真で上田滞在中のことを。
これは柳町という場所のお店。ここであんみつ食べた。この辺りは江戸から新潟までを繋ぐ北国街道の宿場町であったらしい。現在は昔の街道の感じを残した観光地となっております。
江戸時代の人の距離感覚というのは、現代人とは全然違ったのだろうなと思う。江戸の人間にとって新潟なんてのは相当遠い場所だったんじゃないだろうか。普通移動は徒歩でしょう。せいぜい馬とか?
だから、そこに行くまでより多くの日数を必要とするし、また現代ほど社会全体が均質化していないはずで、現代において県を跨ぐのとは全く違ったと思う。
そういう意味で、世界は狭くなったと思う。
インターネットの普及もそうですが、それだけではなく物質的にもこれほど世界中で同じものが売られているような今、もう昔のような旅というのは出来ないでしょう。だからこそ世界旅行なんて一般人には資金的にも能力的にも到底出来なかったことが、簡単に誰でもできるようになったわけですが。
そういう世界にあって、そういう世界に染まりきっていない場所を体験したいという気持ちが、自分にシングルスピードやオフロードを選択させているのかもしれないなと思ったり。
これは上田城の中にある招魂社。
この招魂社の一部分が改装されて赤松小三郎記念館となっています。
赤松小三郎の建白書。
ここで一番面白かったのは赤松小三郎の建白書を見れたことでも、墓石を見れたことでもなかった。なにより貴重な体験になったのは、この記念館の開閉をしている赤松小三郎顕彰会のおじいさん(82歳)の体験談を聞けたことだった。
82歳ということは、戦前は小学生時代を過ごしたことになる。それはつまり戦前の洗脳教育=天皇は神であり、天皇の為に死ぬことは素晴らしいことだと、実際教わった体験者ということだ。本などでそういう知識はあっても、僕は是が非でも直接体験者の口から聞いてみたかった。
「やはり実際に天皇は神だとして教わったんですか?」
そう訊ねると、おじいさんは深くうなずくと同時に、ハッキリとした口調で「教わった」と言い切った。その時の声や言葉の出し方は、決して荒げたわけではなく静かではあったが、微塵の揺るぎもない、その人間の底から出てきたような声だった。それは、その体験が、その人の人生やその人自身の中に刻み込んだものが、どれほど重たいものであったのかを感じさせるようなものだった。単純な肯定でも否定でもない、言葉などでは到底言い得ない感情を含んだような声だった。
そして、もう一つ昭和天皇=裕仁という人間についてどう感じたのかも訪ねた。
神だとされ、国家の最高権力者であり、最高の権威(なんたって神ですから)であった昭和天皇が、敗戦後、先の戦争は間違っていたと教えられ、平和が大事だと教えられ、「平和国家」として歩もうとしていた日本の象徴として生き続けた。最も重く、厳しく責任を問われるべき人間が、180度転換した日本において、なんの責任をとることもなく生き延びただけでなく、国の象徴となる。この昭和天皇(とそれを許容したこの国)について、どう思ったのかを訊ねた。
しかしおじいさんは、その質問に対しては答えることが出来なかった。
「う~ん・・・」と首をかしげ、考え込み、ようやく「あまり考えなかったなぁ」と言っただけだった。
それと、戦前は自分も軍国少年だったとも言っていた。天皇のために戦って死ぬんだと。本気でそう思っていたと。
その方はいまでは上田で赤松小三郎顕彰会に所属し、民主政を良いものだと評価しているが、戦前の天皇制について批判することは決してなかった。昭和天皇の戦争責任についても言葉をもたなかった。
ただ、昭和天皇の戦争責任や、いまの天皇(明仁さん)に人権がない=人間として扱われていないことについて、いまだにそれが深刻な問題として考えられることはなく、社会的には思考停止状態にあることを考えれば、その人が特別なわけではないのだと思うし、むしろそれは日本を端的に表したような反応だったのだと思う。
話を聞いて、この話の背後にある問題のとてつもない大きさと深さを感じた。
子供向けに作られた赤松小三郎の生涯の紙芝居風パネル。
これは墓石。別に見た所でどうということもないんですが。
市民の森キャンプ場というタダのキャンプ場があるので、キャンプもしました。
これは行く途中の景色。
キャンプ場から2㎞くらいの場所に湯楽里館という温泉がある。大人500円で安いしお勧め。観光的な場所でなく地元の人が来る場所なのかなと思います。
湯楽里館の外からの眺め。
隣接するオラホレストランではビール作ってました。オラホビールです。湯楽里館内でも飲めます。
今回はフロアレスシェルターを使用しています。詳しくは別で感想書こうと思います。ものはシックスムーンデザインのゲイトウッドケープ。
飯とスープ
キャンプ場からの夜景
といった感じです。長くなってきたので、ここらで終わり。
以上、上田滞在でした。
これは柳町という場所のお店。ここであんみつ食べた。この辺りは江戸から新潟までを繋ぐ北国街道の宿場町であったらしい。現在は昔の街道の感じを残した観光地となっております。
江戸時代の人の距離感覚というのは、現代人とは全然違ったのだろうなと思う。江戸の人間にとって新潟なんてのは相当遠い場所だったんじゃないだろうか。普通移動は徒歩でしょう。せいぜい馬とか?
だから、そこに行くまでより多くの日数を必要とするし、また現代ほど社会全体が均質化していないはずで、現代において県を跨ぐのとは全く違ったと思う。
そういう意味で、世界は狭くなったと思う。
インターネットの普及もそうですが、それだけではなく物質的にもこれほど世界中で同じものが売られているような今、もう昔のような旅というのは出来ないでしょう。だからこそ世界旅行なんて一般人には資金的にも能力的にも到底出来なかったことが、簡単に誰でもできるようになったわけですが。
そういう世界にあって、そういう世界に染まりきっていない場所を体験したいという気持ちが、自分にシングルスピードやオフロードを選択させているのかもしれないなと思ったり。
これは上田城の中にある招魂社。
この招魂社の一部分が改装されて赤松小三郎記念館となっています。
赤松小三郎の建白書。
ここで一番面白かったのは赤松小三郎の建白書を見れたことでも、墓石を見れたことでもなかった。なにより貴重な体験になったのは、この記念館の開閉をしている赤松小三郎顕彰会のおじいさん(82歳)の体験談を聞けたことだった。
82歳ということは、戦前は小学生時代を過ごしたことになる。それはつまり戦前の洗脳教育=天皇は神であり、天皇の為に死ぬことは素晴らしいことだと、実際教わった体験者ということだ。本などでそういう知識はあっても、僕は是が非でも直接体験者の口から聞いてみたかった。
「やはり実際に天皇は神だとして教わったんですか?」
そう訊ねると、おじいさんは深くうなずくと同時に、ハッキリとした口調で「教わった」と言い切った。その時の声や言葉の出し方は、決して荒げたわけではなく静かではあったが、微塵の揺るぎもない、その人間の底から出てきたような声だった。それは、その体験が、その人の人生やその人自身の中に刻み込んだものが、どれほど重たいものであったのかを感じさせるようなものだった。単純な肯定でも否定でもない、言葉などでは到底言い得ない感情を含んだような声だった。
そして、もう一つ昭和天皇=裕仁という人間についてどう感じたのかも訪ねた。
神だとされ、国家の最高権力者であり、最高の権威(なんたって神ですから)であった昭和天皇が、敗戦後、先の戦争は間違っていたと教えられ、平和が大事だと教えられ、「平和国家」として歩もうとしていた日本の象徴として生き続けた。最も重く、厳しく責任を問われるべき人間が、180度転換した日本において、なんの責任をとることもなく生き延びただけでなく、国の象徴となる。この昭和天皇(とそれを許容したこの国)について、どう思ったのかを訊ねた。
しかしおじいさんは、その質問に対しては答えることが出来なかった。
「う~ん・・・」と首をかしげ、考え込み、ようやく「あまり考えなかったなぁ」と言っただけだった。
それと、戦前は自分も軍国少年だったとも言っていた。天皇のために戦って死ぬんだと。本気でそう思っていたと。
その方はいまでは上田で赤松小三郎顕彰会に所属し、民主政を良いものだと評価しているが、戦前の天皇制について批判することは決してなかった。昭和天皇の戦争責任についても言葉をもたなかった。
ただ、昭和天皇の戦争責任や、いまの天皇(明仁さん)に人権がない=人間として扱われていないことについて、いまだにそれが深刻な問題として考えられることはなく、社会的には思考停止状態にあることを考えれば、その人が特別なわけではないのだと思うし、むしろそれは日本を端的に表したような反応だったのだと思う。
話を聞いて、この話の背後にある問題のとてつもない大きさと深さを感じた。
子供向けに作られた赤松小三郎の生涯の紙芝居風パネル。
これは墓石。別に見た所でどうということもないんですが。
市民の森キャンプ場というタダのキャンプ場があるので、キャンプもしました。
これは行く途中の景色。
キャンプ場から2㎞くらいの場所に湯楽里館という温泉がある。大人500円で安いしお勧め。観光的な場所でなく地元の人が来る場所なのかなと思います。
湯楽里館の外からの眺め。
隣接するオラホレストランではビール作ってました。オラホビールです。湯楽里館内でも飲めます。
今回はフロアレスシェルターを使用しています。詳しくは別で感想書こうと思います。ものはシックスムーンデザインのゲイトウッドケープ。
飯とスープ
キャンプ場からの夜景
といった感じです。長くなってきたので、ここらで終わり。
以上、上田滞在でした。